最貧困女子 - 中島みゆき「顔のない街の中で」

こんにちは。

社会派ブロガーのげんきです。(?)

なんだか今年は、

ブックレビューブログになってしまいそうな、

そうでもないような気配がしています。

 

 

 

最近読んだ本で衝撃的だった、

鈴木大介さんの著作が今回の話題です。

 

「売春・窃盗・詐欺の現場取材記者」

と自称する彼に最初に興味を持ったのは、

"苦しい"暴力団の現状を伝える

対談記事でした。

暴力団は、存在自体は適法でも

所属すれば住む部屋すら借りれないほどに

社会から排除されており、

暴力団の幹部さえ、その存在自体を

違法にして欲しいともこぼすほどに

苦境に立たされているのだとか。

 

そちらはそちらで興味深い世界なのですが、

今回私が購入したのは、

性産業と貧困に関わる著作、『再貧困女子』。

 

何故かと問われれば、

歌川たいじさんの自叙伝コミック、

『母さんがどんなに僕を嫌いでも』の

映画をちょうど見たばかりであること、

あとは、ごく身近に

児童養護施設で育った人がいることが

影響しているような。

 

 

この本を読んでよくよくわかったことは、

売春を生業にしている人たち、

その中には風俗店に勤めている人もいれば

出会い系サイトを使っているような人も

いるわけですが、

そういう人たちの多くが、

虐待やネグレクトの家庭に育っていること。

 

よくあるパターンは、

まともに食べさせてもらえない結果

コンビニで万引きをする。

そうして補導されては、

家に連絡され、迎えにも来てもらえない、

あるいはさらに酷い虐待を受けることを

繰り返すなかで、

圧倒的な「大人」「制度」への不信感を

育てた不良たち。

 

やがて堪えかねて家出をしたはいいが、

何のよすががあるわけでなし。

繁華街で途方に暮れるそんな彼らに

生きる術を与えるのが、性産業。

女は風俗。男はホスト。

そこには同じような境遇を持つ人も多く、

ある意味では理解者でもある彼らが、

事実上のセーフティネット

なってしまっていると言うのです。

 

また、発達障害や知的障害、

精神疾患を持つ人も多いと指摘。

受け入れてくれる職場が少ない、

役所の手続きのようなものを

極端に苦手とするなどの特徴から

社会の周縁に追いやられていく。

 

さらに、貧困の再生産の問題や、

社会福祉制度のアウトリーチの弱さなど、

現場取材だけにとどまらず、

包括的に事態を知ることができる本でした。

 

 

 

今はインターネットの時代です。

おびただしい量の情報が

手の届くところにあり、

情報のシャワーを浴びるための

メディアやツールも揃っています。

 

インターネットの基本は検索とリンクです。

それはつまり、

検索したこと、そこからリンクされている

情報にしか、たどり着くことがない、

ということ。

 

だから、自分のまだ知らない世界を知り、

自分の世界を広げるには、

情報過多な現代でもなお、

結構な努力が必要だと思っています。

 

 

 

「顔のない街の中で」という歌は、

そんな時代だからこそ、

殊更に意味を持つように思います。

 

現実世界では、多くの人と関わりあい、

ただすれ違う人も含めればその人数は

計り知れないほどでしょう。

でもその中に、

今日食べるにも困るような人がいても、

心身の障害に苦しんでいる人がいても、

ほとんどの場合、そんなことつゆも知らずに

すれ違っていってしまう。

 

それゆえに、

南青山に児童相談所ができるのを

街の価値が下がると非難してしまったり、

「日本に貧困はない」みたいな

発言ができてしまう。

 

自分の場所からは

見えないから「ない」のだと、

思い込んではいけないのだなぁと

痛感せざるを得ない読書体験でした。

 

 

見知らぬ人の痛みも

見知らぬ人の祈りも

気がかりにはならないだろう

見知らぬ人のことならば

ああ今日も暮らしの雨の中

くたびれて無口になった人々が

すれ違う まるで物と物のように

見知らぬ人のことならば

ならば見知れ 見知らぬ人の命を

思い知るまで見知れ

顔のない街の中で

顔のない国の中で

顔のない世界の中で

 

 

中島みゆき

「顔のない街の中で」

 

 

 

顔というのは、

その人が誰かを判断(identify

するものでもあり、

心の窓とも言えるもの。

 

目も耳も鼻も口もない人々が

行き交う街。

誰が誰ともわからない街。

心の通わない街。

 

印象的かつ効果的なメタファーは、

相変わらずみゆきさんのお家芸です。