2. どんな家庭も、少しは壊れている -気付いたら、ゲイだった

さて、まだ2回目だというのに、

シリーズタイトルとは関係のない話を少しします。

ちょっとシリアスになりますが、

次回には元のおちゃらけに戻りますので、

ちょっとだけお付き合いを。(笑)

 

 

 

 

私の幼少期は、比較的恵まれたものでした。

父親の年収がそれほど低くはなかったのと、

自分が中2のころまで住んでいた部屋が、

小さいながら、父方の親戚(祖父母?)に

タダで借り受けていたものだったので

衣食住には困らなかったうえに、

習い事も、いくつかさせてもらえていました。

私立の中では安い方でしたが、

中学から私立にまで通わせてもらいました

 

 

ただこの、家が父方の親戚のものだった事実は、

母親にとって非常に負い目だったらしく、

うちは貧乏だとしょっちゅう言っていたし、

贅沢なことを言うとよく叱られました。

 

一度、浅草でお昼時にお寿司を僕が食べたがって、

それは多分、1500円近くするものだったんですが、

母が高いと怒りながら、でもほかに良いお店が

見つからなかったということもあったのか、

結局そこに入ることになりました。

高いの食べたがったんだからどーたら、

みたいなことを言われつつ、

不機嫌な視線を浴びながら、

僕はそのメニューを注文して食べました。

ちなみに浅草という地は、

下町に住む僕たちにとって、

特別なお出かけ先ではなくて、

日常の買い物をするような場所でした。

 

僕はその頃お寿司に本当に目がなかったのですが、

そんな雰囲気の中で食べて味がするはずもなく。

自分が食べたいものを食べたいと言うよりも、

安いものを食べたほうがよっぽど美味しいし、

嫌な思いをしない、ということが、

そんな風にして身についていきました。

少々哀しく聞こえるかもしれませんが、

これが身につくと都合よく幸福を感じられるので、

存外にラッキーだったと、今では思っています。

30歳目前の今、

値引きシールが大好物なオカマに育っていますが、

安く済んでお得でうれしい、

という程度のものではなく、

本当に心底喜んで選んでいるのです。

一方で、欲しいものやしたいことには

無駄に我慢をせずにきちんとお金を使う、

たまには贅沢もする、ということもできますから、

なかなかバランスの良い

経済観念だと自己評価しています

 

 

 

どの家庭にも、後から思えば

ちょっと偏ってたよね、

というような教育や、しつけというのは

あるのではないでしょうか。

人の価値観というのは多様ですから、

親の価値観でしつけをされれば、

必然的にそういうことになるのでしょう。

ただお金に関してうちの場合は、

母の価値観から来るものではなく、

父方の家が絡んでいる、

ということが大きかったようです。

同居をしていたわけではなく、

電車を乗り継いで片道1時間強ほどの

距離を隔てて、父方の祖父母は住んでいました。

 

 

最近、信田さよ子さんという

臨床心理士のインタビュー記事を読んで、

うちのあれも、DVだったんだなぁ、

と結論付けたのですが、

父は、自身の母親、

つまり僕の祖母に逆らえない人で、

機嫌を損ねないことを第一に考えるため、

母に強制したことは数知れず。

抵抗する母は「お前はわがままだ」と、

父に何度も言われたのだそうです。

DVは必ずしも暴力を伴うものではなく、

というか、DVと呼ぶべきものは

例えば精神的な支配であって、

身体的暴力という手段を取らない

パターンのほうが多いそうです。

 

そしてまた、DVを受けている母親は、

往々にして、自分の子供を虐待してしまう。

考えてみれば、DVを受けている精神状態で、

子供には何の問題もなく愛情を注げるなんて、

仏様でもない限りできっこありません。

 

僕の母親は、テレビやフィクションの世界でも

あまり聞かないような人生を歩んできた人で、

手を引かれながらどこかへ出かけた帰りによく、

その話を聞かされ、僕はその都度泣いていました。

年端もいかない子供にもわかるような

悲惨な話でした。

 

そういう人ですから、仏様とはいかなくとも、

だいぶ強靭な人で、かつもともと、

誠実で愛のある人なので、

世に聞くような虐待は、僕はされませんでした。

暴力も、基本的には受けていません。

 

…正確に言うと、直接的な暴力はなくても、

その脅迫のようなものは、

あったといえばありました。

 

一時期の僕は、母に怒られた時に、

まったく言葉を発しませんでした。

言い訳もしなければ、

肝心の「ごめんなさい」も言わない。

怒っている側からすれば、

火に油を注ぐような態度でしょう。

 

次第に母ははさみを持ち出してきて、

喋らないなら口を切ってやろうか、

と言って僕の口元まで持ってくる、

という流れがお決まりになりました。

 

実際に切られることはもちろんなかったし、

ちょっと手元を誤って、

切れて血が出てしまうということも、

多分一度もなかったのは、

逆にすごいなと思うのですが(笑)、

そこまでされても僕は全く、

一言もなにも言いませんでした。

 

言わなかったのではなく、

言葉が出てこなかったのです。

思考停止になっていたわけではありません。

頭の中は十二分に回転しています。

今ごめんなさいと言えば良いということも、

言いさえすればそれで良い、

ということが分かっていても、

なぜか口からそれが出てこないのです。

何をしても喋らないので

そのうち放置されるのですが、

喋ろうとしても喋れないフラストレーションで、

畳をじりじりと掴んだ感触を覚えています。

 

 

こういう僕を母は当時、

「お前はプライドが高いから、

謝りたくないんだ、謝れないんだ」

という風に評していました。

強ち間違いではないんでしょう。

ただ、ごく最近になって、

強いストレスのかかる状況で喋れなくなる、

というのは珍しいことではないと

心理学系の何かで目にしたので、

もしかすると、

そういう経験を子供時代にした人は、

ほかにも案外いるのかもしれませんね。

 

 

あとは、「家を出ていけ」ということは、

叱られる時には何度も言われました。

「おばあちゃんちの子になればいいだろう」と

言われたこともありました。

父の強制を媒介に、

母はいつも祖母の支配の中にいて、

しかし僕はその祖母の大のお気に入りだった、

そして僕も、可愛がってくれる祖母のことが

大好きだったので、そのことが辛かったのだと、

母本人が、のちに語っています。

祖母自体は人格的に問題のある人で、

親せきからは総スカンで誰も寄り付かず。

わがままで、損得勘定で人付き合いをする人で、

僕も電話越しに、母へのキツい嫌味を

たまたま聞いたことがあります。

ある内視鏡手術を終えて、

退院し帰ってきた母に対する、

「なんだ。あんた生きてんじゃないの」

という言葉でした。

その頃には僕も、祖母の性格の悪さを

ある程度聞いて知っていましたが、

それでも背筋が凍るような思いでした。

 

 

母に叱られる時、大きなカバンを渡されることも

よくあったと記憶しています。

荷物をまとめなさいという言葉とともにです。

正直、荷物と言われても、

何を詰めていいかもわからないので、

毎度、自分の持ち物が入っている戸棚を開けて、

その前に座ってずーっと、

頭の中だけがぐるぐる回る、

というのを、あれはいつも

どのくらいの時間かけていたのか、

感覚としては、1時間とか、

そういう単位に感じるような時間、

ただただ座っていました。

 

当時の僕はよく、もしも、

本当に出ていかなければならなくなった場合、

一番仲の良い友達のところへ置いてもらうのと、

父方の祖父母の家へ行くのと、

(母方は祖父は他界、祖母は縁が切れていた)

どちらが良いのかというのを考えていました。

学校が変わらないという意味では、

友達のところのほうが良い、

でもそんなの、絶対に学校中の噂になる。

祖父母の家だと学校は変わるけど、

お金を出してもらうことには問題がないはずだし、

転校という形なら怪しまれにくい...なんて。

 

 

母にされたことではありませんが、

間接的に最も衝撃が大きかったのは、

母が文字通り「狂う」ところを

目の当たりにすることでした。

母は当時からパニック障害

発症していたりもするのですが、

精神的な負荷があまりに高まると、

「ヒステリー」と呼ぶような状態に

なることがありました。

いや、これは父の言い方で、

正確にはヒステリーではなかったと思います。

父からの強制に対し限界を迎えると、

うずくまって、泣いて、ものを力なく投げて、

上ずり声で訴えるように呻く。

言葉で表現しにくいのですが、

「半分壊れた」ような状態になることが

時々あったのです。

 

子供心に、この母の豹変ぶりというのは

とても恐ろしいもので、

妹と身を寄せ合って泣きながら、

その時が過ぎるのを待つしかありませんでした。

この時の気持ちというのは、

それ以来長いこと忘れていたのですが、

大学生になってからふと、

思い出すきっかけがありまして、

その時は涙が止まりませんでした。

でもそれ以来は、同じことを思い出しても

感情は蘇らなくなりました。

記憶自体も、かなり薄れてきています。

 

 

5年ほどこうした状況が続きますが、

幼いころの数年というのは、

大人になってからの数年よりも

圧倒的に長く感じるものですね。

こうして文章にするに当たって初めて、

5年、という数字に直してみて、

あれ、そんなに短かったのか、と

意外に感じました。

 

 

 

僕の場合、大変良かったのは、

小学校3年生ごろのある時、母に対して直接、

「お母さんは僕のことが嫌いなんでしょ?」

と言えたこと、そこで母が、

「これはまずい」と気付けたことでした。

その日を境に、僕と母親の関係、

ひいては家族全体の雰囲気は、

ある程度のところまで、

大きく改善していくことになります。

もう一段階改善するためには、

息子の僕が大学生になってようやく通い始めた

メンタルクリニックの先生の勧めに従って、

父も交えた話し合いをすることと、

父方の祖父母の家から距離を置くこと、

この二点を行うことになるわけですが、

ま、その辺まで行くとあまりに趣旨が

ずれてきてしまいますのでこの辺で。

 

 

 

 

母は自分の知る間でも、

大きく振る舞いを変化させた人です。

父も、母の忍耐や努力もあって、

それに準じて変化をしました。

一人の人間が、状況・条件によって

どれだけ違う風に見えるか。

一方で、人間の本質は、

どれだけ変わることが難しいものであるか。

そういうことを叩き込まれた子供時代は、

今の自分にとって、とても大きな遺産です。

 

 

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