変わっているのは人間の方 - 中島みゆき『世界が違って見える日』

みゆきさんの新しいアルバムが、

3年ぶりにリリースされました。

コロナ禍下の長い沈黙を経て発売された

今回のアルバム、やはりいつも以上に

特別な位置づけになることは必定でしょう。

 

今回は、近年(と言っても2,30年ですが)

には珍しく、歌詞カードにあとがきと、

作者註が載っています。

みゆきさん本人がどう考えてこのアルバムを

発表したのかを知ることはできないとしても、

これだけ明確な「コロナ禍」というトピックが

関係ないことはあり得ない。

もちろんみゆきさんのこと、

「コロナ禍で苦しいけどみんなで頑張ろう!」

みたいな単純さの対極に居る人ですから、

容易には受け取れませんが、

あとがきや註釈はこのご時世、いつもよりも

「受け取ってほしい」と強く思っていることの

表れではないかと感じています。

 

たった15年程度のにわかファンながら、

その思いを探りたくなるのが人情というもの。

「コロナ禍」という補助線を頼りに、

アルバムを通しての所感をまとめます。

斬新な読みができているわけではなく、

当たり前のことを言っているに過ぎない

可能性に躊躇いもありますが、

それでも自分の受け取り方が、また誰かの

補助線になり得ることを期待して

書いてみようかと思っています。

 

 

1.後半を夜会曲でまとめたアルバムに似た構成

 

まずは曲構成の話から。

みゆきさんがアルバムを作るときには、

アレンジャーでありプロデューサーである

瀬尾さんに、すべての楽譜と曲順が

揃った形で手渡されることが、

瀬尾さんの口から明らかになっています。

 

今回のアルバムを通して聴いて感じるのは、

前半と後半で雰囲気が異なること。

特に後半に、夜会っぽさを感じること。

前半はタイアップ曲、提供曲が並び、

体温という軽快で聴きやすい曲もあります。

一方後半の5曲は、

9曲目の「天女の話」は例外としても、

夜会の舞台上で歌うみゆきさんが

想像できる曲調です。

 

 

例えば8曲目の「心月(つき)」は、

みゆきさんの歌う後ろで

別の歌詞を当てているフレーズが

流れます。これは夜会でよく

使われる手法で、本人がインタビューで、

「こういうことをしてもなかなか

お客さんに理解してもらえない」

というようなことを述べていたのを

憶えています。

アルバムには歌詞カードがありますから、

フレーズだけで歌詞のない部分にも

括弧書きで歌詞をつけることで、

理解してもらおうということでしょう。

 

実際に後半に夜会曲をまとめた構成の

アルバムは過去にもあって、

『DRAMA!』『荒野より』『問題集』が

それに当たるでしょう。

LPレコードのA面・B面のようですね。

 

コロナ禍の3年間、みゆきさんは

コンサートも夜会も行っていませんので、

当然後半の曲は夜会に使われた曲では

ないのですが、

これらが今後目論んでいる夜会に

使われる曲なのか、

もしくは、3年間できなかった

夜会の代わりとしての位置づけなのか。

真実が近いうちに明らかになることを

期待しています。

 

 

2.コロナ禍と「距離」

 

コロナ禍の特徴の一つは、

「距離感の変化」であると言えるでしょう。

ソーシャルディスタンスを保つことが

基本所作となりましたし、

不要不急の外出をせず、

会う必要のない人とは、しばらくの間

会わないことが良しとされました。

コミュニケーションは専ら「オンライン」。

物理的距離は遠く離れたまま、

というのが、仕事でもプライベートでも、

ごく普通の世界になりました。

 

今回のアルバムの前半には、

「距離」が感じられる曲が並んでいます。

 

1曲目の「俱に」は、

古参のみゆきファンの方から

「友に」とのダブルミーニングであり、

亡くなった小林信吾さんへ捧げる歌である、

という指摘がなされていますが、

「遠い遠い距離の彼方で」という詞は

亡くなった人との絶対的な距離にも、

物理的距離にも、心理的距離にも

取ることのできるような歌になっています。

 

2曲目の「島より」は、共に生き続けることが

叶わなかった相手から離れ、遠く離れた南の島へ

移り住んだ主人公の心境、

3曲目の「十年」は、

恋をしながらも十年の間、

自ら距離を取りつづけた様子の描写。

いずれも距離を失恋と重ねています。

 

対して5曲目の「体温」において、

物理的距離が0にならなければ

感じることのできないもの、

オンラインでは絶対に伝わらない、

体温「だけがすべてなの」と

歌っています。

 

ちなみに当初は、

自分の体温のことを指している

可能性も考えていましたが、

歌詞カードの右ページ、

英語の歌詞において、

体温は "The Warmth of You" と

訳されており、

「流れゆく移り変わりを

 怖がらせないで」という歌詞は

"The changes in the world

 don't intimidate me with you being there"

と訳されています。

 

 

3.コロナ禍下で一層輝くすべての人の「仏性」

 

コロナ禍の様子を最もストレートに扱ったのは

やはり「噤」になるでしょう。

諸説ありつつも、鳴き声が聴こえないという意味の

ツグミ」という名を持った鳥に、

飛沫が飛ぶからと発話を抑制し、

マスクで口を覆うコロナ禍下の人々を

なぞらえるのは、さすがのメタファー。

終わらない悲しみに途方に暮れる様子は、

終わりの見えないコロナ禍そのもの。

 

その「噤」と、続く「心月」は

伴奏が途切れず連続しています。

(追記:3/13の田家さんラジオに瀬尾さんが

   ゲスト出演、演奏を繋げたのは

   みゆきさんの指示と仰いました)

「心月」こそ、同じフレーズを繰り返す

まさに夜会で使いそうな歌ですね。

「噤みながら逐われ」(「噤」より)、

「心月を捜してる」(「心月」より)。

心月という言葉に関しては、作者註がついています。

それによると、心月は「仏性」と

解した方が近い、とのこと。

仏性とは、一切衆生が本来持っている

仏としての本性、とも書かれています。

 

みゆきさんは一貫して、

愚かで哀しい「人間」を、それでも「信じ」ている

という印象があるのですが、

この「心月」も、照らしてくれる誰かが

存在するというよりも、

すべての人の中の「心月」が実は、

それぞれを照らしていて欲しい、

照らしているはずだ、

ということを歌っているようです。

 

こう捉えると、同じくみゆきさんの

「天鏡」という歌との類似性が見えてきます。

人をあまねく見通す鏡を求めて、

戦を起こして、しかし手に入らない。

その鏡は、「涙を湛えた瞳だ」という詞は、

やはり一人ひとりの中にそれはあるのだ、

という訴えであり、祈りであると思えます。

童話「青い鳥」にも似た構造ですが…

おっと、このアルバムには「童話」という

タイトルの歌があり、さらには詞に

「青い鳥」が出てきていますね。

「僕は青い鳥」という歌も昔出していて、

この歌も青い鳥は、自分の家にいた鳥ではなく、

まさに「自分自身」であると説いています。

 

と、言いつつ次に控えているのは、「天女の話」。

名曲「蕎麦屋」に似た、めっちゃ良い友人の話と

言ってしまえばそれまでですが、

こちらは何とも人間らしく、涙に鼻水満載です。

心月の重厚感ある歌から終曲へつなぐ

緩衝材であると言えますが、

「仏性」とは何か、というのを

みゆきさんなりに表現した歌なのではないかと、

心月の後に聴くと、感じずにはおれません。

 

 

4.夢の京

 

夜会Vol.10「海嘯」の頃から顔を出し始め、

長らくモチーフであり続けた「輪廻転生」が

夜会Vol.18,19「橋の下のアルカディア」で

一旦の終結を見たことは、

最新の夜会「リトル・トーキョー」に

転生のモチーフが表れなかったことから

確実と思って良いかと思います。

では、今のみゆきさんは何を考えているのかと

思っていたところに、

「夢の京」という曲がリリースされました。

 

リトル・トーキョーとは「京」の文字が

被っているだけかもしれませんが、

あの夜会で破壊されたリトル・トーキョーは、

これも作者註で語られた、

「京(みやこ)の設計図」の一つだと

考えても良い気がしています。

 

しかし、リトル・トーキョーは破壊されました。

壊れたリトル・トーキョーでみゆきさんが

エンディング曲として歌うのは、

「放生」であり、「さあ旅立ちなさい」。

「夢の京」とは反対方向を向いている……?

 

ここでやはりあてにしたいのが、作者註です。

心月は解釈の難しい言葉ですから、

註釈があってもそれほど不思議ではありませんが、

夢の京、という言葉に関しては、

言葉自体が難しい、ということはありません。

ではなぜ……と考えてもう一度註釈を読みます。

諦めの眠りの中で、京へ帰ろう、という意味にも

取れるだろうけれども、みゆきさんは、

なくした京の設計図を持ち続ける夢は

誰にも奪えない。未来を恐れる必要はないと

歌いたいと述べています。

 

こういう説明を、

今まで一切してこなかったみゆきさんが。

あの、歌の解釈を狭めるのは

もったいないと言っていたみゆきさんが、

わざわざ、二つの解釈の可能性を書いた。

みゆきさんがこう歌いたいと、

書いたそのままにだけ受け取ることも

また一つだと思います。

でも、そう受け取って欲しいなら、

歌詞で分かるようにすることもできそうだし、

註か、あとがきか、もう少し

違う書き方になりそうな気がする。

 

これはとても微妙で繊細な解釈が

求められそうな問題ですが……

今の自分の仮の捉え方を述べますと、

現在観察できる事象としての前者、つまり

夢に逃げてしまっている人々がいることと、

みゆきさんの祈る後者、現実に覚醒しつつ

夢として希望として失くさずにいることの、

二重写しの歌として聴かれること、

そしてその両者の中での揺れを、

それぞれの思う配分で感じながら、

希望としての夢に傾けていけることを

期待して書いているのではないか。

 

リトル・トーキョーは、

眠りの中の夢に近いものだった。

それは、もはや現実には壊されてしまっている。

アルバム『CONTRALTO』の

「おはよう」という曲、

壊されたという現実に目覚めよ、という

歌も思い出します。

 

『CONTRALTO』とリトル・トーキョーでは

目覚めよ、旅立て、だけだったところから、

では何を力に旅立てば良いのですか、

という問いに答えた。そういう展開だと

現時点では捉えてみようと思っています。

 

 

==========

 

いかがだったでしょうか。

みゆきさんの表現はいつも

そぎ落とされた洗練さで、

時間をかけて自分の中で膨らんでいくものなので

まだまだ発酵不足の状態ですが、

それでもすでに、

3年間待った甲斐があったと

思えるような満足感を受け取っています。

 

パフォーマンスについては触れませんでしたが、

齢70で、ここまで幅広い表現ができるには、

相当の鍛錬もあるのでしょう。

今の自分にはどんな表現ができるのか。

今の自分が表現できる曲はどんなものなのか。

そうした深い追究が想像に難くない。

今回のアルバムは、ハモリも自分で

担当している曲が、珍しく沢山あって

それもまた魅力的なのですが、

そうなった経緯というのも非常に気になります。

 

 

正直コロナ禍は、

世界を変えてしまった、と

みんな思っていると思います。

もしコロナ禍が終わったとしても、

もうまったく元に戻ることはないんでしょう。

「世界が変わった」。それが

多くの人の認識だと思います。

 

それに対して今回のアルバムタイトルでは

「違って見える」という言葉が使われています。

あとがきにも書かれていますが、

世界に絶望する出来事もあるけれど、

世界に希望を持てる出来事もあるはず、と。

アルバムリリースのタイミングから考えて、

ロシアの対ウクライナ侵略戦争

始まった後で、制作されているでしょう。

今まで思っていた「世界」とは

異なる世界が始まってしまったように

感じた人も多かったはずです。

 

しかし。世界は常に流転していて、

そして、世界は常に一貫している。

 

だとすれば、絶望に見えたものが

希望に見えるのも人間の側次第。

 

そんなことを考えながら、

私も私の夢の京を、持ち続けようと思います。