10. すべてを書き終えて -気付いたら、ゲイだった

実はこのシリーズは、

読んでもらえたら良いかも、という

具体的な相手が存在していて、

それもあって思いついた企画です。

良かったらこれ読んで、なんて

その人に言うつもりはないですけどね。

自分の過去が何かの足しになる自信はないし、

「これ」と差し出されて読むのと、

言われずに目に触れるのとでは、

確かな違いがあると思っているので。

結局読まれずに終わるような気もするけど、

それならそれで、まぁ良いかな。

…とか言いつつ、少し経ってから

言っちゃうかもしれない。我慢できなくて。

そういうカッコ悪いやつなんですよわたくし。

ダメですよねぇ。

 

 

 

こうやって、ゲイという観点を主軸に

自分の過去をざっと文章にまとめてみて、

忘れていたことの発見も、

少なからずありました。

主に、以前交流したブロガー、

kumazzzoさんのこと。

こんな風に親切にしてもらっておいて、

忘れてしまうなんて、

なんて不義理なんでしょう。

ブログの更新は2014年の2月で止まっていて、

リンクされているツイッター

アカウントも消えています。

当時のメールアドレスに、

メールを送ってみましたが

返信はありませんでした。

 

消息がわからなくなるというのは、

寂しいものですね。

仕事である地方のお客様のところへ

出張で通い詰めていた頃に、現地で

仲良くさせてもらっていた人がいたのですが、

距離のある恋愛なんてありえない、という

マインドセットが強固な僕は、

その人とお付き合いするという気は

まったくありませんでした。

彼もそれをわかっているようでしたが、

でも、余裕ができたら

東京まで遊びに行くと言ってくれた時の

あの感じは、

けっこう本気だったと思っているし、

僕も出張の日程がわかるたびに

当然のように連絡して予定を合わせました。

多分、距離がなかったら

付き合っていただろうと思います。

少なくとも僕はそうしたがったと思います。

 

そんな彼ですが、そのうちに

仕事が尋常ではなく忙しくなっていって、

体調もボロボロになっていき、

ある時は不自然に返信が来なかったのですが、

ちょうどその頃に出張が一段落したのもあり、

その時はそのままにしてしまいました。

その後、今度は常駐で2か月住むことが決まり

そのことを報告しようと連絡しましたが、

返信は返ってきませんでした。

僕は、彼は亡くなってしまったかも

しれない、と思っています。

 

いずれにしても、消息不明となれば、

自分にとっては、亡くなってしまったも同然。

何年も経ってから

連絡が取れないことに気付くというのは、

なかなかに後悔を引き起こすのですね。

切ないことです。

 

 

 

さて、千野帽子さんという方の著作に、

『人はなぜ物語を求めるのか』という

ものがあります。その中の表現に従えば、

人は出来事どうしに因果関係を見いだす癖があり、

自分の過去を、自分自身を、

物語の形で理解しているようです。

記憶というのが、かなり頼りにならない

曖昧な代物であることも手伝って、

その物語というのは、

同じ一つの人生からでも

様々に解釈されてしまう。

自分の記憶をよくよくひも解いていったり、

異なる解釈の仕方の

ヒントを与えてもらったりすると、

その物語が一変して、

自分は実は思っていたような「自分」では

まったくなかった、と気付くこともあり得ます。

 

 

千野帽子さんが具体的に引用している例として、

黒子のバスケ脅迫事件の

犯人のエピソードがあります。

彼は当初、格差社会を呪っていました。

まともな生活ができない原因は社会にある、

だから最後に、社会的成功者に

一太刀浴びせて死にたい、というのが

犯行の動機だと、冒頭陳述では語っていました。

 

しかし、彼はその後、精神科医の本を読み、

自分の人生の解釈を大きく転換させます。

そして最終陳述では、冒頭陳述を一切否定して、

自分の行動の原因は、親からの虐待といじめに

あったのだと述べ直しているのです。

 

 

これは非常に極端な例で、

人生の途中でこれほどインパクトの強い

人生の「再解釈」を経験する人は、

それほど多くないだろうと推測しますが、

年齢を重ねながら少しずつ

過去の捉え方が変わって、

自分の思う自分自身がスライドしていく

程度のことは、よくあるのではないでしょうか。

 

 

 

僕が近年追いかけている思想家・哲学者、

東浩紀さんのエッセイ集『ゆるく考える』

の中に、「少数派として生きること」

と題した章があります。

夏目漱石『こころ』をどう読むか』

という書籍に寄せたエッセイの再掲で、

その中にこんな表現があります。

 

 

マイノリティとして生きること。

それが辛いのは、数が少ないから

ではなく、ひとはだれでも最初は

自分がマジョリティだと誤解して

しまうから、自分がマイノリティ

だと気づくのに時間がかかるから

ではないだろうか。先生はそのあ

いだに、Kを死に追いやり、御嬢

さんを不毛な夫婦生活に閉じ込め

てしまった。先生の罪はそこにあ

る。先生は「私」にその罪を繰り

返すなと説く。だから先生は遺書

に「腹の中から、或生きたものを

捕まえ」てみろと、自分の欲望を

隠すなと記す。「私の鼓動が停っ

た時、あなたの胸に新らしい命が

宿る事が出来るなら満足です」。

東浩紀・著『ゆるく考える』

 2019年、「少数派として生き

 ること」より

 

 

「マイノリティとして生きること」という主語は、

この主張にはいささか大きすぎるように思います。

外見、例えば人種や身体的障害などに由来する

差別的取り扱いを、ものごころつくかつかないか

くらいの時分から受けていれば、

自分がマイノリティであることを

早々に、強烈に自覚させられます。

「気づくのに時間がかか」らないのです。

 

そういう意味でこの主張は、

セクシュアリティのマイノリティ性に

非常に特異に当てはまっているようです。

性的指向は、思春期を迎えるまで

気付かれにくく、しかも

完全に内面だけの問題であるが故に

自分で「気付かないように」することも

可能である。そして上手く隠してしまえば、

誰からも指摘され、差別されることなく

やり過ごすことができてしまいます。

それが幸せであるかは別にして。

 

2021年現在は、同性愛の恋愛や生活を

主題にしたドラマが全国ネットされるような

時代になっていますが、そうでなかった頃、

スティグマから逃れるように自分の

同性への欲望を否定した人はたくさん

いたと聞きます。

だれでも最初は自分がマジョリティだと

誤解してしま」い、自分の物語を

マジョリティ前提で作り上げている。

自分のマイノリティ性と向き合うことは、

自分が作ってきたマジョリティとしての物語を、

マイノリティとしての物語へ

書き換えることを迫られる、

ということに他ならないでしょう。

 

僕の場合は、もともとマジョリティとしての

既成の物語に上手く乗ることができておらず、

自分のマイノリティ性に気付いて初めて、

自分らしい物語を「発見」することができました。

一方で、物語を書き換えなければならない

ことに、恐怖や苦痛を覚える人も、

きっとたくさんいるはずです。

そこまでとは言わずとも、

どうやって書き換えたらいいのか

分からず戸惑う場合も多いでしょう。

 

 

言語化」という作業は、

それに対して大きな威力を発揮します。

なにもこれは過去のことに限ったことではなく、

今現在の自分の「心」というものも、

案外自分で分かっていなかったりするもの。

人に話してみて初めて、

あれ、こんなこと思っていたの?と気付くことも

あったりするものです。

 

でもこの言語化、一人で行うのは意外と難しい。

聞き役がいてくれることが助けになったり、

刺激になるような文章を

読んだりすることで促されたり。

そうした外部の力が、とても重要です。

 

 

 

僕の今回の文章は、「再解釈」のための、

言語化」実践の一つです。

僕自身のためになる、とても楽しい作業でした。

 

そしてこの文章が、

もしも「外部の力」として、

どこかの誰かの「言語化」の

助けになったのだとしたら、

こんなに嬉しいことはありません。

 

そしてさらにもし、

自らの「言語化」に迷ったり躊躇している人が、

これを読んで、僕がkumazzzoさんにしてくれたように、

声を掛けてくれることがあるとすれば、

僕は喜んで、あの時のkumazzzoさんと

同じことをしたいなぁ、と思っています。

 

 

 

2021430日 日付が変わる少し前。

 

Special Thanks To カズ兄(校閲

 

 

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