太陽は雨乞いに応えられるか - 谷山浩子「雨になりたい」

「何となくだけど。

 彼にとって欲しい愛は雨で、

 僕にとって欲しい愛は太陽なのではと。

 彼は、なんかどこから降ってくるかは

 あまり問題じゃない感じするの。」

 

「人に好かれていたい、とか?

 常に好きでいてほしい?

 万人に愛されたい?」

 

「問題なのは総雨量じゃなかろうかと。

 それはつまり、友人やら他やらでも、

 雨を降らせてくれる所へ行くと。」

 

「ぎゃーわかるー。

 

 すぐに雨降らせてくれないから

 雨乞いを止めたのでは。

 

 もういいよっ

 ていう。」

 

「雨なら、他にも降ってくるところは

 あるわけよね。」

 

「〇〇(私)の雨量は

 どのくらいあるんだろう。

 いっぱい降らせてくれるのかなあ。

 

 なんか雨タイプっぽい、おれw

 パンがないなら、

 パンをくれる人のところに

 行けば良いじゃない。」

 

※念のため断っておくと、

「彼」は単なる代名詞です。

 

 

 

こういう会話をさせてくれる

友人がいるというのは、

本当にありがたいことだと

身に染みる今日この頃。

 

話は具体的な恋愛の愚痴から始まり。

あまりに行動パターンが対極的な相手に、

もしかしたらこの世の人間は、

こんな2つのパターンに

分けられるのではなかろうかと

問いかけてみたところ、

結構はまってくれたのでした。

 

 

 

太陽が欲しい場合、

努力は太陽を探すことに向けられる。

見つけたら、その太陽がいつまでも

自分のことを照らしてくれるように

と、頑張る。

 

一方雨が欲しい場合、

努力は空を広げることに向けられる。

できるだけ広い空を作って、

どこかしらで雨が降っている確率を

できるだけ高める。

あとは、雨が降ってくるところへ

自分が頑張って移動すればよい。

 

完全にどちらか、ということはなくても、

大別したこの二つのタイプの間で

どっちの要素をより強く持っているか、

人それぞれに比率がある。

 

恋愛に限らず、友人や家族も含めて

人間関係の作り方全体に適用可能な

モデルの一丁上がりです。

(大きく出過ぎました)

 

 

太陽好きなら太陽好きどうし、

雨好きなら雨好きどうしで

人間関係を作りそうなものだけれど、

そしてその傾向はあると思うけど、

もちろんのこと、例外は発生する。

実際、私は完璧なる太陽好き、

一方この話を聴いてくれた友人は

比較的雨が好きらしいということで、

既に一致していない。

 

 

雨好きの人が太陽好きに対して

どういう思いを抱きがちなのかは

よく分からないのですが、

太陽好きが雨好きさんを好きになると

あなたにとって私はなんなの…?

と、不安になりやすい気はします。

今回、友人に話をしたのも、

その辺が根底にあるわけで。

 

 

その違いが二人の間で摩擦して、

如何ともし難い場合、

それはもう関係づくりは難しい、

諦めるしかない、ということに

なるんでしょうけれども、

 

こうやって客観視してしまうと、

分かってるなら何とかなるんじゃない?

という気にもなってくる。

 

太陽を求めているけれども、

相手がたまにどっかいっちゃっても、

まぁ一日の半分は夜だし、なんて。

で、豊かに雨を降らせておく。

 

これが可能であるということが、

すなわち「器が大きい」

ということなんだろうなと思うと、

挑戦したくなってしまうのは…

無謀なんでしょうかねぇ。

 

無謀だった…んでしょうかねぇ。

 

 

 

でも 雨にはなれないから

わたしはここで歌ってる

遠く離れていても

きっと届く  あなたに

 

(…)

 

生きるあなたの全て

どんなささいな出来事も

見守る大きな空に

風に  雨になりたい

 

「雨になりたい」 谷山浩子

 

 

 

谷山さん的にはもちろん、

人間関係の作り方の違いがどうとか、

そんなつもりで作った歌ではないでしょう。

まぁ、方向性は

当たらずとも遠からずだと思うのですが。

 

でもこの文脈に投じてみると、

そういう歌なのかな、という気に

なってきませんでしょうか。

 

そう。それはさながら、

初期の夜会のように…(笑)