8. そんなため息、TVドラマでも見たことない -気付いたら、ゲイだった

ある日、夕食時に会社から家に帰ると、

母の様子が、明らかにおかしい。

 

他人に聞かせることが目的かのように、

強く短く、吐き切るようなため息。

それを、何度も何度も繰り返すのです。

食事中、のべつ幕なしにその状態ですから、

当然、大丈夫かと声を掛けるのですが、

返ってくるのは生返事だけ。

おかしすぎる。今まで様々な精神状態の

彼女を見てきたけれど、

こんな様子は見たことがありませんでした。

 

食事を終えて台所に立っても、

ため息のインターバルは一向に変わらず。

話を聴きに、横に立つ僕。

その日父は不在でした。

どこかで何となく勘付いていた僕は、

僕に関することなのかと聞いてみました。

この時初めて、

母は一切の返事をしませんでした。

ここで僕はすべてを悟り、

後で部屋に来てほしいと言って、

先に部屋に入りました。

 

 

 

「僕がどういう人を好きになるかってことだよね?」

部屋に来た母には、こうして話を切り出しました。

 

 

 

僕は、大学2年から3年間、駅のコンビニで

早朝バイトをしていました。

マネージャーもバイト仲間もみんなよい人たちで、

融通も効かせてくれる働きやすい環境でした。

早朝メンツは僕以外はみな女性で、

何人かにはゲイだとカミングアウト、

行ってみたいというので二丁目に

連れて行ったこともあります。

日本の通称を持つ在日韓国人

韓国国籍の韓国人、中国人、

韓流ドラマが好きな純日本人。

そして僕。なんでしょう、この並び。

 

そしてさらに驚くべきことにその店舗には、

僕を含めてゲイが当時3人もバイトしていました。

しかも皆午前中のシフトに入ることがあったので、

ごくたまにですが、3台のレジすべてを

我々オカマで埋め尽くすという事態も発生。

誰も誰のタイプでもなかったことは、

残念というべきか、不幸中の幸いというべきか。

 

そして僕が大学4年になったとき、

大学に上がった妹も、

この店舗でバイトするようになります。

初めは別のところを探していたのですが、

理系学生で大学自体も遠く、

入れるシフトがかなり限られていたので、

融通が利き伝手も効く、僕のいる店舗くらいしか、

勤められるところがなかったのです。

兄弟で、というパターンは実は初ではなく、

働きやすくみんな仲の良いその店舗では、

そんなことも充分あり得る雰囲気だったのです。

 

僕はその後、就職でバイトを卒業し、

妹だけが残って続けていたのですが、

事件はここで起こりました。

 

例のゲイ3人衆のうちの一人、

彼は僕が働き始めた当初は大人しかったのですが、

僕とゲイトークをするようになってから、

だんだんと頭角を現していき、妹が入る頃には

歩くカミングアウトにまで

成長を遂げてしまっていました。

そして妹が、あろうことか、

その歩くカミングアウトに対し、

「うちの兄、そうじゃないかと思うんですけど…」

と、相談を持ち掛けてしまったのです。

 

すっかり忘れていたのですが、

僕が中学生の頃だったか、

妹が自分の部屋に用事で入ってきた時に、

ノートPCにエロサイトが

表示されたままで放置してあって、

ん?今の角度、もしかして画面見えた?

と思ったことがあったのでした。

どうやらその時から、

妹はそうではないかと疑っていたらしいのです。

 

さて、そんな相談を受けた、歩くカミングアウト

居直って、妹に対し丁寧にこう答えました。

 

 

「そう…まだ家族には言ってないのね。

 本人が言うまで、そっとしておいてあげて。」

 

 

 

はい。やってくれちまいました。

アウティングと言って差し支えないでしょう。

この事実を抱えきれなかった妹は母に暴露、

そして事実を抱えきれず、

しかし誰に言う当てもない母は、

ため息を止められなくなった、と、

こういう経緯だということが、

母の口から伝えられました。

 

僕にはごまかす気は一切ありませんでしたので、

というかここまで来たらごまかしも白々しいので、

その事実に偽りはないことを白状しました。

 

あまり細かい会話を覚えていないのですが、

お嫁さんが来ることはないんだね、

孫ができることもないんだねと言って、

さめざめと泣いたということだけは、

さすがに忘れることができません。

 

母の名誉のために、世の中にはたまに、

カミングアウトを受けた母親が泣いて、

それは本人が

苦しかっただろうと思ったからだとか、

あなたは変わらず息子だとか、肯定的な

反応が返ってきた、というような

美談は意外とありますけれども、

うちの母の場合は、自分の家族、つまり

両親兄弟とまともに一緒に暮らしたことが

なく、そして結婚後も家族(義母)に

苦しめられて来た人なので、

息子のお嫁さんや孫という

新しい家族ができる幸せをも

断たれたということには、特別な思いが

あったのだろうと想像します。

 

だからもし家族にカミングアウトするとしたら、

ビアンの人と子供を作って、

そのカップルと3人で、

子供を育てることになりました、とか、

里親として彼氏と一緒に

育てることになりました、とか、

そういうきっかけくらいかなぁ、と思っていた、

そんな算段はまったく崩れ去り。

つまり、あなた(たち)の

孫に相当するような存在ができるのですよ、

という知らせとともにだったら、

どこか罪悪感が和らぐかもしれないと

考えていたのですね。

 

しかし、この時の僕は意外なことに、

罪悪感とか、気まずさとか、そんなものは

ほとんど感じていませんでした。

 

 

かわいそうな母。

 

 

なんて他人ごとなんでしょう。

かわいそうだと思ったのです。

 

そしてもっと悪いことに、

そうだ、あの本やこの本で勉強してもらおう、

と思いついた僕は、「嬉々として」

隠し持っていた歌川さんの漫画、

野原くろさんのミルク、

にじいろライフプランニングの本などを

持ち出してきて、これ読んでみて、

ここに置いておくから、と告げたのです。

 

 

 

母に対して、「僕のこと嫌いなんでしょ?」と

決死の覚悟で(なのか記憶は正直ないのですが)

母に問い、母との和解が成立したあの日から、

僕にとっての母とは、どちらかといえば

守られる存在というよりは、

対等、あるいは守る存在に切り替わりました。

なぜそういう風に転換したのか、

理屈で説明することはできませんが、

というかもともと、母に守られたいだとか、

わかってほしいと思っていたかどうか、

正直そこから怪しいのですが、

いずれにせよ、本を勧めたこの時の僕は、

僕のことをわかって欲しいという気持ちを

一切持っておらず、ただ単に、

自分の存在をきっかけに母が

知らなかった世界を勉強できるのではないかと、

そのことにうきうきとしていたのでした。

 

 

それから6年半ほど経ちますが、

母や妹と性や恋愛の話はあまりしません。

ゲイ界隈の話は、家族全員で

マツコ・デラックスが好きなこともあって

たまーにしますが、その程度。

初めは、僕のほうが、まだ事実を

受け入れられていないのではないかと

身構えているところもあったのですが、

今は、単に気恥ずかしいから話さないというだけ、

おそらく自分がノンケに生まれていたとしても、

そういう話はしなかったのではないかと思います。

 

 

ちなみに、父はまだ知りません。

父は男にストーカーまがいのことを

された経験もあると聞いています。

さすがにそろそろ偏見は

持っていなさそうとはいえ、彼に

受け入れる度量があるとは

ちょっと考えにくいですし、

知ってほしいという気持ちは

微塵も持ち合わせていないので、

バレない限り言わずに終えよう、

と思っています。

 

あんまり人生を揺さぶっても、気の毒ですからね。

 

 

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7. トキかライチョウか、はたまたオオサンショウウオか -気付いたら、ゲイだった

kumazzzoさんの後押しに心を決め、

大学2年になると同時に、

早稲田大学を拠点とする

セクシュアルマイノリティサークル、

GLOW」への入部を果たしました。

 

結論から言えば、その後3年間、

つかず離れずの距離感で

所属し続け、卒業していきます。

とは言え、毎年の早稲田祭企画のうち、

初めの年の映画では音声さんとエキストラ、

最後の年の演劇では、回想シーンに登場する

台詞がちゃんとある役柄で舞台に上がりましたし、

2年目は社会人勉強会と称して、

前々回の記事で触れた歌川さんや、

にじいろライフプランニングの永易さん、

ビアンカップルで子育てしているオノさんや、

FTMマガジン主宰者のアキトさんを呼んだ

座談会形式のイベントを企画・実施、

3年目の時の社会人勉強会も、

担当者の急な都合により

代理で司会を行ったりしているので、

意外といろいろ楽しんではいるのですが。

 

でもやっぱり、集団の中で楽しむというのが

いまひとつ苦手だった僕は、

サークルの合宿も一度しか行かなかったし、

飲み会とか部室交流もあまり参加しませんでした。

でも、こういう参加の仕方でも

3年間居座り続けることができたのは、

自分が興味を持てるようなイベントも

(たまには)あって、レアキャラでも、

行けば迎え入れてくれる人がいたこと、

これに尽きるのかなぁと思います。

そういう参加の仕方もあるので、

とりあえず入ってみて、何となく1年くらいは

所属しておく、というのも良いんじゃないかな、

というのが、参加を迷っている大学生への

僕なりの意見です。

 

ちなみに、サークルに3年も所属していながら

浮いた話の一つもなかった僕は、

「天然記念物」と呼ばれていたらしいことを、

卒業間近になって知りました。

実際、片想いを一つしたくらいで、

一切の経験なく卒業することになりましたので、

本当に天然記念物並なのかもしれません。

とはいえ、当時は今よりもっと、同年代に

あまり興味を持っておらず、実際周囲にも、

年上が好きだからあまり対象がいないんだと

言い訳をしていたような気がします。

当時の保険のCMをもじって、

5060喜んで」と吹聴したのは、

さすがに言いすぎだったのですが、

でもやっぱり、20歳そこらの年齢では、

色気というものが足りない。

そんな生意気な20歳そこらでございました。

 

 

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6. ブロガーさんとの接触、そして初めての -気付いたら、ゲイだった

一般ゲイのブログや、

歌川さんの記事を追いかけながら、

僕はだんだんと、学校の委員会系活動に

のめりこむようになっていきます。

運動会とか文化祭とかの委員ですね。

同時に、正式(?)な初恋も経験しますが、

過去ブログでも紹介したように

10年も前にネットで披露済ですので(笑)、

ここでは割愛します。

 

https://www.1101.com/koiuta/2012-05-16.html

 

あ、そういえば生徒会室で、

初めて他人にカムアウトしたんだったなぁ。

悩みぶちまけ大会みたいになってて、

○○さんはなんかないの?

(当時さん付けされていた。ある人が

いろいろな人にさん付けし始めたのが広まって、

学年で僕含め数人くらいは、

デフォルトがさん付けになった。

いじめられてたわけではない。と信じている笑)

と言われたところで、えいやっ、とね。

その場には僕以外に3人いて、

まぁカムアされた側としてあんまり

良くないことも言ったとはいえ

(「日本でよかったね」)、

まぁまぁ悪くない応対だったですね(何様)

こっちは緊張し過ぎて、実際に口に出したときは

硝子戸の向こうへそっぽを向きながらでしたが。

 

次の日からも、彼らは何ひとつ

変わらない対応をしてくれたし、

恐らく誰にも言わないでくれて、

ありがたい限りでした。

しかもこの3人の中には、僕の初恋の人が

含まれているのでした。大胆なワタシ…

 

 

そんなこんながあり、そして受験、大学への入学。

一般的に、このタイミングで実家を出ると、

それを境にゲイライフが進展、というパターンも

少なくないと思うのですが、僕の場合は実家通い。

それに、中高一貫教育を受けた僕にとって

大学入学は久しぶりの大きな環境変化。

ゲイとしての自分はとりあえず置いておいて、

まずは新しい環境に慣れよう、と思っていました。

 

そんな矢先に知るのが、「GLOW」という

セクシュアルマイノリティサークル。

早稲田大学の公認サークルですが、

他大からでも参加OK

ここに入ったら、絶対新しい世界が開けるな……

しかし集団に馴染むのが苦手なわたくし。

ちょっと怖いな……躊躇しちゃうな……

 

2021年現在のHP

比較的ポップな感じですし、

今はTwitterとかがありますからね、

良いんでしょうけど、

当時のHPは少し怪しげだったというか……

文面を覚えてるわけじゃないんですけど、

サークル旅行の写真が上がっていたのは

よーく覚えてるんです。何度も見たので。

もちろん、顔なんてわかったら

アウティング大会ですから、

ぼかしてあるんですよ。で、集合写真なんです。

つまり、30人とか40人とかの、ボケボケで、

人ともわからない顔が並んでいる写真が、

唯一あがっていたんですよ。

いや別に、

悪いって言ってるんじゃないんですけど、

なんというか……怖くありません??(笑)

 

ま、前述のとおり1年目は、

まず大学生活に慣れよう、ということで、

すぐには入らない、という選択をしました。

 

 

 

では1年間、ゲイとしては何も

行動しなかったのかというと、

これがそういうわけでもなくてですね。

初めてゲイの人と会うというのを

この年に達成したんであります。

 

 

前回、ponpokoさんのブログを

読んでいたことを紹介しましたが、

ponpokoさんは静岡住まいの方だし、

こちらから何かアクションする、

という感じではありませんでした。

が、大学1年生の9月ごろ。ここへ来て初めて、

ponpokoのひとりごとブログのリンク集にある、

別の人のブログをいろいろ読んでみる、

というのをやりまして。

なんでここまでしなかったのか

さっぱり謎だし、ほかのブログは以前から

ちょこちょこ読んでいた気はするのですが、

ponpokoさんのリンクからは

飛んだことなかったんですよね。

 

で、そのリンク先の中で、

「さよなら三角また来てへなちょこ」という、

kumazzzoさん(これだと、くまっっぞさんに

なると思うのですが、くまぞーと読むそうです。

突っ込んだことはありません。笑)の

ブログに、ハマることになります。

 

https://blog.goo.ne.jp/kumazzzo

 

こちらは、最初から記事が全部残ってますね。

つまり僕の残したコメントもすべて残っている……!

恥ずかしいのでハンドルネームは教えませんよ。

…んなもん誰も興味ないか(笑)。

 

 

kumazzzoさんは、HIVのキャリアです。

ブログを始められた20048月の時点で

感染の事実はわかっていて、

実際に投薬治療がスタートしたのは、20061月。

時折、通院のことや薬のことなど、

HIVの話題もありましたが、

食べ物を中心とした日々の報告と、

思ったこと考えたことを

織り交ぜた話が大半のブログです。

 

kumazzzoさんの語り口には

独特の雰囲気があって、

ちょっぴり暗いところがあるのですが、

そんなところが僕の肌に

非常に合ったのでしょう、

6年分溜まっていた記事を

一気に読んでしまいました。

 

さて、勘の良い読者の皆さんは、

kumazzzoさんが初めて会った人なのね、と

お気付きのことかと思います。大正解です。

 

では、kumazzzoさんと、

どのように交流が始まったのか。

このあたり、正直記憶が曖昧だったのですが、

メールのやり取りをしていたはずなので

一番最初のやり取りでもみれば思い出すだろう、

そういえばヤフーメールでフォルダを分けてたな、

ということで、約10年ぶりに確認をしたところ、

なんと、始まりは僕のファンレターでした。

 

----------

はじめまして。ブログを拝読しまして、

その素敵な、趣のある文章に、

メールを差し上げたくなってしまいました。

僕は19歳の大学1年生です。

しっかり組合員です(笑)。

実は5年ほど前からponpokoさんのブログを

読ませていただいていたので、

kumazzzoさんとブログの存在は存じていました。

今月に入って、ponpokoさんのブログの

リンクに目が行き、題名に惹かれて覗いて

すっかり嵌まってしまいました。

(中略)

今は更新を楽しみに待っている状態です。

あ、催促ではありません!気長に待ってます。

面識のない方にメールを送るのは初めてで、

訳もなくちょっぴり怖かったのですが、

僕の生活範囲の土地のお店レポートが

多く掲載されているという理由で

kumazzzoさんに勝手に親近感を

持っていたおかげで、思いきることができました。

(中略)

ブログを書くのは難しい、

とおっしゃっている記事が

過去にあったと思うのですが、

kumazzzoさんのブログは最初から

ずっと変わらず素敵です。

このブログが続く限り、

ファンでいたいと思っています。

----------

 

うーん、なんちゅーか、べた褒めですな(笑)。

まぁ、これだけべた褒めしたいくらいだったから

メールを送ることにしたんでしょう。

どういう気持ちで送ったか、

あんまり憶えてないんですが、

ゲイの人で、こんなにも

肌の合う文章を書く人を見つけて、

すごく嬉しかったんでしょうね。

 

この後は、ブログにたまにコメントしたり、

年明けにはお年賀メール

送ったりしているのですが、

2011年の219日、東日本大震災の少し前、

この日に、kumazzzoさんから突然、

お昼ご飯でもご一緒しませんか?

というメールが届いた。

……ということも、

過去のメールを見て思い出しました。

 

 

kumazzzoさんのブログにコメントを付けたり、

メールでやり取りをしていても、

僕の中ではまだまだ、ネットの中、

パソコンの中に閉じられた世界でだけ、

ゲイとして生きていたので、

kumazzzoさんからのお誘いを受けて、

「うわあぁぁぁぁぁ!!!!!」

(表現が稚拙ですみません)

と舞い上がったのを、微かに憶えています。

自分にとってこんなにも

エポックメイキングな出来事はないというのに、

あまり憶えていないということに、

今、ビックリしています。

 

 

さて、こちとら暇なネクラ文系大学生。

二つ返事でOKし、次の週の日曜日に、

新宿駅で待ち合わせました。

定番の東口交番前での待合せも、これが初体験。

kumazzoさんは、

体の大きな優しそうな人なのですが、

もちろん当時の僕には、

「お、イケる!」とか思う余裕などなく、

めっちゃくちゃ緊張していました。

ランチをご一緒したのは、新宿御苑わきにある

Hamburg Will」という、

とっても美味しい

ハンバーグ屋さんだったのですが、

緊張して会話に気を使い過ぎて、

目の前のハンバーグばかりを食べてしまって、

最後に白飯をほとんどそのまま

食べる羽目になる、という失態を犯したこと、

これはよーく記憶しています。

 

そしてそのあと、真っ昼間の二丁目を

簡単に案内してもらいました。

このあたりが全部ゲイバーなんだよーとか、

ゲイショップのルミエールさんを

のぞいてみたりとか。

kumazzzoさんの好みからすると、

僕の見てくれは全くの対象外のはずなのですが、

今考えるとkumazzzoさん、

なんて親切な人なんだろう……

 

夕方ごろには、またね、とお別れをしました。

実は、この日のことで一番記憶に残っているのが、

帰り道の電車にいる時間なんですよね。

ガタンゴトンと揺られながら、

「今までとは全く違う、

 新しい世界の扉が開いた……!」

と期待に胸を膨らませて。

一つ大人になったような感覚もありました。

 

この日、kumazzzoさんにはGLOWの話もして、

まだ入っていないんだけど、

どうしようかちょっと迷っていると言ったら、

ひとまず入ってみたら良いんじゃない、と

背中を押してもらえたので、

新学期からの新歓イベントに参加しよう、と

心を決めたのでした。

 

 

 

さてこの後、kumazzzoさんには、

ブロガーさんたちのオフ会にお誘いいただき、

新宿御苑でのお花見や、

上野のゲイバーでの飲み、

その流れで新宿ゲイバーでの飲み、

というのにいそいそと出かけて参ります。

僕はブロガーではないですし、

どちらかというと体の大きな3040代が

ボリュームゾーンの集まりでしたので、

なんとなく端っこでニコニコしているに

とどまったのですが、

たまたま新宿で飲みに行ったゲイバーの隣に、

「碧珊瑚」というみゆきバー

中島みゆきファンが集まるゲイバー)

があるのを発見して、

そこへ通うようになります。

こんな僕が常連になれたのは、

「ナオさん」という人のおかげで、

「ナオさんの命日」という記事に

少し書いていますので、ここでは割愛します。

 

ナオさんの命日 - 中島みゆき「二隻の舟」

 

サークルやゲイバーという場所を見つけて、

また就職活動なんかも始まるようになると

kumazzzoさんとの連絡やブログへのコメントは

だんだんと不精になっていってしまいました。

 

 

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5. やっぱりブログが好き -気付いたら、ゲイだった

さてさて、小学生のうちは、

無邪気にエロだけ追いかけて

キーボードを叩く日々だったわけですが、

そんな検索を続ける中で、

気になるブログを発見します。

 

ponpokoのひとりごと」

 

ほらそこ!

ぽんぽこ狸体形が好きなだけでしょ、

という図星な突っ込みはご法度ですよ!

 

発見したのは、たぶん中学2年生の頃。

2005年、ということになると思います。

きっかけは、

めちゃくちゃハマったゲイビデオの紹介記事が

検索でヒットしたことでした。

桜庭勇次とだけ、

ここには記しておきましょう。(笑)

 

ゲイビデオを扱った記事は、

そのブログの中では珍しい部類で、

基本的には日常を、

たいていは写真を一枚添えて綴ったような、

当時のゲイブログとしては

よくあるものだったと思います。

ただ運の良かったことに、

このたまたま見つけたブログが、

とても面白かったのです。

 

なかなか進展しない、あるいは喧嘩中の

イカップルのところへ呼ばれては、

「泉川ピンポコ出動!」とか言って

見事にくっつけてしまう、

面白おかしきピンポコシリーズ。

かと思えば、

花粉症で眼が辛いとか(涙目写真付き)、

エビオス錠を飲んだら噂通り

○○が増えたとか(調べなくてよい)、

そんな大したことない(失礼)内容も、

語り口が朗らかで。

 

辛い過去が垣間見える記事もありました。

亡くなってしまった元相方のお墓の前で、

「顔をだんだん思い出せなくなっている」ことに

傘を差しながら涙を流し、住職さんに

優しい言葉をもらったこと。

 

昔好かれた人に、包丁でお腹を刺されたこと。

 

それらの記事がバランスよく、

ほぼ毎日に近いペースで更新されていくのを、

次第に僕も、毎日チェックするようになりました。

ほとんどエロしか存在しなかった

僕のゲイの世界に、実在する人間としての

「ゲイ」が立ち現れたのです。

 

ちょうどこの頃の僕というのは、

現実的にゲイとして生きることに直面し、

どうやって生きていったらいいんだろう、

どこへ行っても、会社に勤めることになっても、

ずっと隠して生きていくしかないんだろうか、

そんなことできるんだろうか、と、

大きな不安を抱え始めたころでした。

自分はゲイで、男が好きで、ということは、

実感をもって充分理解していたわけですが、

ゲイとして生きるとはどういうことなのか、

モデルが見つからないために、

全く想像できていなかったのですね。

どこにいても、街を歩いていても、

どうして生きてゆくべきか、

果てのない問いに対し何の答えも出せず、

ただ頭だけがグルグル回っていました。

 

 

そこへ現れた泉川ピンポコ、

もといponpokoさんは、

普通にゲイとして生きる、

ということのモデルとして、

「普通に生きれば良いのだ」

「面白おかしく生きることができるのだ」

ということを、

身をもって示してくれる存在でした。

彼がブログで顔出しをしていて、

自分の写真を積極的に上げていたのも、

かなり大きな意味があったと思います。

ハーネスを着けた写真とかも

たまに上げられてましたけど(笑)、

彼の笑顔は本当に素敵でした。

多分誰が見ても、笑顔が良い、

人懐っこいと思うんじゃないかというくらい。

ゲイとして生きていても、

あんなに素敵な笑顔ができる。

5年ほどponpokoさんのブログを

読み続けながら、将来への不安は、

少しずつ払拭されていったのでした。

 

※ちなみに今検索すると、

 ひそかに再始動と書かれつつも、

 記事はすべて消されてしまっています。

 もちろんその前の元祖(?)の

 記事もまったく残っていません。

 ponpokoさんの情報には

 たどり着くことはできないはずなので、

 今は削除されている記事の内容についても

 記憶を元にある程度細かいことまで

 許可を取らずに記載していますが、

 何か突き止めるようなことは

 しないようにお願いします。

 

 

もう一つ、ブログではないですが、

大きな役割を果たしてくれたのが、

歌川たいじさんが初代ガイドをしていた、

All About の同性愛コーナーでした。

当時の記事は残っていないようですが、

雰囲気は、現在の歌川さんのブログ、

「♂♂ ゲイです、ほぼ夫婦です」に

引き継がれています。

 

二丁目とは、ゲイバーとはどんなところなのか。

男同士の恋愛は何が楽しくて、何が大変なのか。

ゲイが全く差別されていない、

フチタンという町へ行ったレポートや、

歴史上の人物で同性愛、少年愛の記録の残る人を

たくさん紹介する記事もありました。

ゲイの基礎知識は全部、

ここで与えてもらったといっても過言ではなく、

ほんとにほんとに、歌川さんには感謝しています。

 

 

前の章を読む:4.「当サイトはリンクフリーです。」

次の章を読む:6. ブロガーさんとの接触、そして初めての

4. 「当サイトはリンクフリーです。」 -気付いたら、ゲイだった

というわけで、前回の続きです。

 

小学校高学年当時のゲイボーイ(意味が違う)

であった僕を満足させたもの。それは、

イラストや漫画、文章を公開する個人HPでした。

HPはホームページと読んでくださいね。

ヒューレット・パッカードでもなければ、

ヒットポイントでもありませんよ。

 

当時は、自分のホームページを開設して

自分の創作物を掲載するというのが盛んで、

そういうサイトのリンクを集めただけの

サイトというのもありました。

 

※当サイトはリンクフリーです。相互リンク大歓迎!

 

こういうの、昔はいっぱい目にしましたけど、

いつの間に過去のものになったんですねぇ…

 

『そらいろフラッター』や、

『うちの息子は多分ゲイ』などが

単行本化されて一躍有名になったおくらさんは、

ちょうど当時、そらいろフラッターの原作を

ホームページで連載してたりしましたね。

 

おくらさんは全年齢対象の漫画家さんですが、

そういうゲイ向け漫画は逆に珍しくて、

やはり年齢制限がかかるサイトの方が

たくさんあったわけです。

まぁつまり、そういったサイトのパトロール

日課とするようになったのです。

今日はあの漫画は更新されただろうか、とか、

新しいホームページできてないかなぁ、とか。

それこそ、リンク集をたどって、

次のページでもまたリンク集を見て、という

友達の友達は友達みたいな?全然違う?

 

発信側だけでなくファン層も可視化されていて、

ホームページに掲示板がつけられていたりとか、

mixiにコミュニティが作られていたりとか。

mixiもさらっと言っちゃいましたが、

正直僕はやったことがないので

ちゃんと説明することができません。

SNSの走りって言っていいんでしょうか。

一応まだサービスは存在するんですね。

 

TwitterのようなSNSはまだなかったけれど、

こういう個人ホームページのおかげで、

結構「お仲間」がいるということは

実感することができました。

同じような男のイラストが良いと思ったり、

漫画の展開にキュンとしたりとかする人が、

どこかに一定数いるんだなーと。

ぽっちゃり好きなんて全然王道じゃーん、

とか。いや、これは勘違いかな?笑

 

あとは、漫画は特にそうでしたけど、

パーフェクトなヲネエばかりがゲイじゃなくて、

見た目全く普通にしている人もいるし、

でもそういう人でもたまには言葉が

ヲネエになったりみたいな、

そういうバランス感覚みたいなものを

自然と学びました。

 

何か一つくらいリンクしたいなぁと思って、

記憶を頼りにいくつか検索したら、

時期はちょっとずれるんですが

残ってるのを見つけました。奇跡!

 

http://suvweb.jp/

http://koiwadandan.web.fc2.com/

 

トロールによく使っていた

リンク集もまだありました。びっくり。

 

http://satomitsu.com/gayartnavi/

 

 

まぁそんなわけで、完全に自分は

男が好きな人間なんだなと、

個人ホームページを見ながら確信していく、

そんな小学校高学年時代だったわけです。

 

ちなみに、少なからぬゲイの方々が、

まず自分がゲイだと受け入れるところから

苦労するという経験をされていますが、

私の場合はその点まったく苦労はなく。

逆に、ものすごーく納得がいったんですね。

 

 

なるほど!

自分はなんか周りと違っていて、

あんまり集団に馴染めないし、

女の子との方が仲良くできたりするけれども、

それは自分がこういう特殊な存在だからなのか!

 

 

てな具合。今振り返るとこういうことだな、

ではなくて、当時文字通りにこう思いました。

ただ、自分があんまり周囲に馴染めないのは

ゲイだから、という理由だけではない、

というか理由としては順位が高くないことが、

後々わかるんですけどね…

なんでも属性のせいにしてはいけません!笑 

 

 

前の章を読む:3. 気付くことから、すべては始まる。

次の章を読む:5. やっぱりブログが好き

3. 気付くことから、すべては始まる。 -気付いたら、ゲイだった

前回は大幅に道をそれましたが、

シリーズの趣旨に戻ろうと思います。

小学4年生くらい、

ちょうど家庭の雰囲気が向上し始めたころ、

僕には、「ゲイの自覚」という大イベントが

訪れるわけでございます。

  

 

自覚には至っていなかったとはいえ、

少し戻って小学3年生くらいの時には、

もしかしたら初恋かもしれない感情も

持ったりはしていました。

 

※もっと昔にもあるのかもしれない。

思い出せないだけで。

 

あとは、今思えばそのころには既に、

大柄の男性を好む片鱗を示していました。

アニメなんかではよく、

ぽっちゃりとか太めのサブキャラ

(もちろん男)が出てきますが、

そのたびにテンションが上がって、

「太ってる人って、だいたい良い人だよね」

というトンデモ説を、

大真面目に語る男の子でしたので…

 

 

 

でまぁ、小4に上がったところで、

とうとう「その」時が来るわけです。

時は2002年。

小泉元首相が初の日朝会談を実現した年です。

 

  

しかしまたきっかけがね。

どうもカッコがつかなくて。

いやだって、学校の性教育なんですもん。

 

そう話すと、進んでる学校だねぇ、

なんて言われたりもしますけど、

別にあれですよ、

同性同士もおかしくないんだよ、みたいな

時代の最先端のさらに先を行く

教育を施されたのではありません。

 

理科と保健の合同授業で「生命の誕生」

みたいな授業シリーズが繰り広げられましてね。

もちろん受精するためには、

男女が接合するのが一般的ですから。

ミッショナリーポジションで接合する

男女の断面図?なんかが、

手元の資料として配られるわけですよ。

要するに、精子はこうして子宮へ届くのです、

という、あれです。

 

今思い出すと、あれもなんつーか、

行儀よくしたさというか恥ずかしさというか。

なけなしの抵抗があって、

男も女もほとんど膝が曲がってないんですよね。

そんなんでできるかよ!みたいな。

当時はもちろん、んなこと知りませんけどね。

 

そんな図でも、啓蒙としては、

もう充分すぎるほどの役割を果たしてくれまして。

大きくなったペニスという、

魔性のモノへの欲望が堰を切り溢れだしたのです。

はじめはわけもわからず、

その学校で教わった「ペニス」というもの、

自分の心を掴んで離さないそれは、

いったい何なのだと、

ネットで検索しまくりました。

他人のモノなんて真面目に見たことはなかったし、

ましてや、

 

大きく硬くなる!

 

上を向く!!

 

白い液体を吐き出す!!!!

 

などという突然の新事実は、私を毎日、

家のパソコン(あったんですありがたいことに)

へと向かわせました。

OSは、ご存知 Windows Me でしたねぇ…

(なんだそれという人、是非ググりましょう。)

 

  

そして検索結果は時をまたず、

アダルトビデオの存在を私に提示しました。

そのころにはすでに、サンプルムービーが

ビデオメーカーの公式サイトで見られる時代。

QuickTimeとか、RealPlayerの埋込み懐かしい…

小っちゃいうえに画質も粗いそのムービーは、

二時間ドラマなどでそういう行為があると

なんとなく見知っていた、男女のまぐわい…

 

しかし、女性を観るために作られる映像は、

今一つ自分の欲望とは方向性が違う。

そこでまずは、海外のゲイ向け動画配信サイト。

こちらがヒットしてくるようになります。

さすが欧米は早いですね。

当時で既に、動画が月額配信されていました。

そしてサンプルムービーも豊富に上がっていた。

ただ、たまにすごくハマれる男優はいたけれど、

基本的には欧米人があまり好みではなく、

こちらはすぐに飽きてしまいました。

 

日本人モノで、欲望を満たしてくれるものが

どこかにないだろうか…

(恐らく)まだ国内ゲイビデオメーカー

サンプルを提供していなかった中で、

大満足できるものを見つけていきます。

(次回に続く。笑)

 

 

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2. どんな家庭も、少しは壊れている -気付いたら、ゲイだった

さて、まだ2回目だというのに、

シリーズタイトルとは関係のない話を少しします。

ちょっとシリアスになりますが、

次回には元のおちゃらけに戻りますので、

ちょっとだけお付き合いを。(笑)

 

 

 

 

私の幼少期は、比較的恵まれたものでした。

父親の年収がそれほど低くはなかったのと、

自分が中2のころまで住んでいた部屋が、

小さいながら、父方の親戚(祖父母?)に

タダで借り受けていたものだったので

衣食住には困らなかったうえに、

習い事も、いくつかさせてもらえていました。

私立の中では安い方でしたが、

中学から私立にまで通わせてもらいました

 

 

ただこの、家が父方の親戚のものだった事実は、

母親にとって非常に負い目だったらしく、

うちは貧乏だとしょっちゅう言っていたし、

贅沢なことを言うとよく叱られました。

 

一度、浅草でお昼時にお寿司を僕が食べたがって、

それは多分、1500円近くするものだったんですが、

母が高いと怒りながら、でもほかに良いお店が

見つからなかったということもあったのか、

結局そこに入ることになりました。

高いの食べたがったんだからどーたら、

みたいなことを言われつつ、

不機嫌な視線を浴びながら、

僕はそのメニューを注文して食べました。

ちなみに浅草という地は、

下町に住む僕たちにとって、

特別なお出かけ先ではなくて、

日常の買い物をするような場所でした。

 

僕はその頃お寿司に本当に目がなかったのですが、

そんな雰囲気の中で食べて味がするはずもなく。

自分が食べたいものを食べたいと言うよりも、

安いものを食べたほうがよっぽど美味しいし、

嫌な思いをしない、ということが、

そんな風にして身についていきました。

少々哀しく聞こえるかもしれませんが、

これが身につくと都合よく幸福を感じられるので、

存外にラッキーだったと、今では思っています。

30歳目前の今、

値引きシールが大好物なオカマに育っていますが、

安く済んでお得でうれしい、

という程度のものではなく、

本当に心底喜んで選んでいるのです。

一方で、欲しいものやしたいことには

無駄に我慢をせずにきちんとお金を使う、

たまには贅沢もする、ということもできますから、

なかなかバランスの良い

経済観念だと自己評価しています

 

 

 

どの家庭にも、後から思えば

ちょっと偏ってたよね、

というような教育や、しつけというのは

あるのではないでしょうか。

人の価値観というのは多様ですから、

親の価値観でしつけをされれば、

必然的にそういうことになるのでしょう。

ただお金に関してうちの場合は、

母の価値観から来るものではなく、

父方の家が絡んでいる、

ということが大きかったようです。

同居をしていたわけではなく、

電車を乗り継いで片道1時間強ほどの

距離を隔てて、父方の祖父母は住んでいました。

 

 

最近、信田さよ子さんという

臨床心理士のインタビュー記事を読んで、

うちのあれも、DVだったんだなぁ、

と結論付けたのですが、

父は、自身の母親、

つまり僕の祖母に逆らえない人で、

機嫌を損ねないことを第一に考えるため、

母に強制したことは数知れず。

抵抗する母は「お前はわがままだ」と、

父に何度も言われたのだそうです。

DVは必ずしも暴力を伴うものではなく、

というか、DVと呼ぶべきものは

例えば精神的な支配であって、

身体的暴力という手段を取らない

パターンのほうが多いそうです。

 

そしてまた、DVを受けている母親は、

往々にして、自分の子供を虐待してしまう。

考えてみれば、DVを受けている精神状態で、

子供には何の問題もなく愛情を注げるなんて、

仏様でもない限りできっこありません。

 

僕の母親は、テレビやフィクションの世界でも

あまり聞かないような人生を歩んできた人で、

手を引かれながらどこかへ出かけた帰りによく、

その話を聞かされ、僕はその都度泣いていました。

年端もいかない子供にもわかるような

悲惨な話でした。

 

そういう人ですから、仏様とはいかなくとも、

だいぶ強靭な人で、かつもともと、

誠実で愛のある人なので、

世に聞くような虐待は、僕はされませんでした。

暴力も、基本的には受けていません。

 

…正確に言うと、直接的な暴力はなくても、

その脅迫のようなものは、

あったといえばありました。

 

一時期の僕は、母に怒られた時に、

まったく言葉を発しませんでした。

言い訳もしなければ、

肝心の「ごめんなさい」も言わない。

怒っている側からすれば、

火に油を注ぐような態度でしょう。

 

次第に母ははさみを持ち出してきて、

喋らないなら口を切ってやろうか、

と言って僕の口元まで持ってくる、

という流れがお決まりになりました。

 

実際に切られることはもちろんなかったし、

ちょっと手元を誤って、

切れて血が出てしまうということも、

多分一度もなかったのは、

逆にすごいなと思うのですが(笑)、

そこまでされても僕は全く、

一言もなにも言いませんでした。

 

言わなかったのではなく、

言葉が出てこなかったのです。

思考停止になっていたわけではありません。

頭の中は十二分に回転しています。

今ごめんなさいと言えば良いということも、

言いさえすればそれで良い、

ということが分かっていても、

なぜか口からそれが出てこないのです。

何をしても喋らないので

そのうち放置されるのですが、

喋ろうとしても喋れないフラストレーションで、

畳をじりじりと掴んだ感触を覚えています。

 

 

こういう僕を母は当時、

「お前はプライドが高いから、

謝りたくないんだ、謝れないんだ」

という風に評していました。

強ち間違いではないんでしょう。

ただ、ごく最近になって、

強いストレスのかかる状況で喋れなくなる、

というのは珍しいことではないと

心理学系の何かで目にしたので、

もしかすると、

そういう経験を子供時代にした人は、

ほかにも案外いるのかもしれませんね。

 

 

あとは、「家を出ていけ」ということは、

叱られる時には何度も言われました。

「おばあちゃんちの子になればいいだろう」と

言われたこともありました。

父の強制を媒介に、

母はいつも祖母の支配の中にいて、

しかし僕はその祖母の大のお気に入りだった、

そして僕も、可愛がってくれる祖母のことが

大好きだったので、そのことが辛かったのだと、

母本人が、のちに語っています。

祖母自体は人格的に問題のある人で、

親せきからは総スカンで誰も寄り付かず。

わがままで、損得勘定で人付き合いをする人で、

僕も電話越しに、母へのキツい嫌味を

たまたま聞いたことがあります。

ある内視鏡手術を終えて、

退院し帰ってきた母に対する、

「なんだ。あんた生きてんじゃないの」

という言葉でした。

その頃には僕も、祖母の性格の悪さを

ある程度聞いて知っていましたが、

それでも背筋が凍るような思いでした。

 

 

母に叱られる時、大きなカバンを渡されることも

よくあったと記憶しています。

荷物をまとめなさいという言葉とともにです。

正直、荷物と言われても、

何を詰めていいかもわからないので、

毎度、自分の持ち物が入っている戸棚を開けて、

その前に座ってずーっと、

頭の中だけがぐるぐる回る、

というのを、あれはいつも

どのくらいの時間かけていたのか、

感覚としては、1時間とか、

そういう単位に感じるような時間、

ただただ座っていました。

 

当時の僕はよく、もしも、

本当に出ていかなければならなくなった場合、

一番仲の良い友達のところへ置いてもらうのと、

父方の祖父母の家へ行くのと、

(母方は祖父は他界、祖母は縁が切れていた)

どちらが良いのかというのを考えていました。

学校が変わらないという意味では、

友達のところのほうが良い、

でもそんなの、絶対に学校中の噂になる。

祖父母の家だと学校は変わるけど、

お金を出してもらうことには問題がないはずだし、

転校という形なら怪しまれにくい...なんて。

 

 

母にされたことではありませんが、

間接的に最も衝撃が大きかったのは、

母が文字通り「狂う」ところを

目の当たりにすることでした。

母は当時からパニック障害

発症していたりもするのですが、

精神的な負荷があまりに高まると、

「ヒステリー」と呼ぶような状態に

なることがありました。

いや、これは父の言い方で、

正確にはヒステリーではなかったと思います。

父からの強制に対し限界を迎えると、

うずくまって、泣いて、ものを力なく投げて、

上ずり声で訴えるように呻く。

言葉で表現しにくいのですが、

「半分壊れた」ような状態になることが

時々あったのです。

 

子供心に、この母の豹変ぶりというのは

とても恐ろしいもので、

妹と身を寄せ合って泣きながら、

その時が過ぎるのを待つしかありませんでした。

この時の気持ちというのは、

それ以来長いこと忘れていたのですが、

大学生になってからふと、

思い出すきっかけがありまして、

その時は涙が止まりませんでした。

でもそれ以来は、同じことを思い出しても

感情は蘇らなくなりました。

記憶自体も、かなり薄れてきています。

 

 

5年ほどこうした状況が続きますが、

幼いころの数年というのは、

大人になってからの数年よりも

圧倒的に長く感じるものですね。

こうして文章にするに当たって初めて、

5年、という数字に直してみて、

あれ、そんなに短かったのか、と

意外に感じました。

 

 

 

僕の場合、大変良かったのは、

小学校3年生ごろのある時、母に対して直接、

「お母さんは僕のことが嫌いなんでしょ?」

と言えたこと、そこで母が、

「これはまずい」と気付けたことでした。

その日を境に、僕と母親の関係、

ひいては家族全体の雰囲気は、

ある程度のところまで、

大きく改善していくことになります。

もう一段階改善するためには、

息子の僕が大学生になってようやく通い始めた

メンタルクリニックの先生の勧めに従って、

父も交えた話し合いをすることと、

父方の祖父母の家から距離を置くこと、

この二点を行うことになるわけですが、

ま、その辺まで行くとあまりに趣旨が

ずれてきてしまいますのでこの辺で。

 

 

 

 

母は自分の知る間でも、

大きく振る舞いを変化させた人です。

父も、母の忍耐や努力もあって、

それに準じて変化をしました。

一人の人間が、状況・条件によって

どれだけ違う風に見えるか。

一方で、人間の本質は、

どれだけ変わることが難しいものであるか。

そういうことを叩き込まれた子供時代は、

今の自分にとって、とても大きな遺産です。

 

 

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